文字について

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最近、「光透波」こうとうは=コトバの教えに触れる機会があり、面白いな、興味深いなと思うと同時に、つくづくと感じていることがある。

それは、文字はエネルギー次元をこの物質次元に定着させるためのものであり、固定させるためのものであり、プログラムだ、ということ。

もともともは、言葉のない世界があったのです。

ここは根拠は示せませんが確信あり。

そこでの想いが音となって外に現れていって、形になる。

その形を留めておくためのものが文字。

ここでこんなことを書いてるのも文字でおかげあって初めて読んでいただけるわけだけれど、私の頭のなかではずっといろんなことが感覚的にある。

この感覚は、別に私が、文字にしてシェアしなくても、私の中にその感覚がある時点で、すでに世界とシェアされている。

でも、この物質的社会の感覚にしか意識がなければ、私の中にある感覚をキャッチすることはできない、少なくとも顕在意識レベルで。

それゆえに、言葉で伝えたり、文字にして伝えたり、ということが、この物質的社会(3次元的社会)では必要となっている。

関連して、これもよく私お伝えしていることだけれど、3次元を動かしたければ、2次元化した方が速い、という話。

要は、頭の中で(4次元的)世界だけでエネルギーが存在しているより、一度2次元的世界(紙とペン)に落とし込むと、なぜか、3次元が動く。

パソコンではなくて紙とペンのほうがいいような氣がしている。

これも、エネルギー次元を3次元に落とし込むために文字や形を使っているひとつの典型的な例と言える。

で、何が言いたかったかというと、最近つくづく思うのは、この文字というものは素晴らしいけれど、私たちはやはり相当これに影響を受け、制限されているなと。

とくに漢字の世界。記号的なカタカナの世界では、多くの含みがあって、そこで直感を使いながら意味を汲み取る力が鍛えられていたのではないかと思う。あるいは、短絡思考的な解釈をせずに、含みを踏まえた上で受け止める余裕みたいなものが自然にあったかもしれない。

が、漢字は特に、一つひとつにある程度決まったこれ、という意味というかエネルギーがある。

よって、見た瞬間にわかりやすい、というメリットは大いにあって、今更、日本人が、ひらがなばかり、かたかなばかりのぶんしょうをよめといわれて、りかいしやすいかどうかといいったら、かえって、よみづらい、わかりづらいにはなる。

かんじつかってよっ!ておもったりするかもしれない。

でも、この漢字を使うということ、私たちの意識を固定化するのに、相当貢献してきたんだろうなと。よくもわるくも。

戦後教育の1+1=2的な、答えが一つしかない、という短絡的なマニュアル志向な私たちの思考回路を作り上げるのにも、漢字は大いに貢献しただろうなと。

素晴らしい「神の創造物」とおっしゃられる先生方もおられるようだけれど、うーん、文字、そして数字を含めて、そう喜んでばかりはいられない氣もする。

それは「神」の創造物ではなく、「神」と言わせた存在の創造物である、とも言えないか?

もちろん今の私の意識の及びのつかないくらいの奥深い叡智が含まれているとはいえ、固定化するものでもあり、限界がある。

文字のない世界に私は生きていた氣がするので、この文字だらけの世界、文字でなければ伝わらない世界は、しちめんどくさい。

しちめんどくさいだけなら別にいいかもしれないけれど、大いなる自己制限ツールにもなりうるし、マインドコントロールツールにももちろんなっている。

実際、私たちはこの文字・数字に大いに振り回されて生きていないか?

毎日示される数字、上下される数字、そこに添えられる文字。。。

それによって、私たちの思考が左右される世界。

今一度、文字・数字について、少し俯瞰の視点で捉えるようにしたほうがいいよねと思うわけです。

本来の大いなる叡智を含んだ状態の文字・数字でなく、コントロールとプログラムのための文字・数字からはすっと身を引いてさらりと交わしながらいくのがよいかもしれない。

私たちの頭は、今、この文字と数字が日々飛び交っています。

本来の私たちのスピリットは、文字や数字の世界には生きていません(と勝手に確信)。

このことを、時々でもいいので、思い出して生きると、ちょっと違う現実を生きれるようになるのでは?と思います。

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